loading

監督

テンギスアブラゼ

テンギス・アブラゼ

今年110年を迎えるジョージア映画史の戦後の発展を担ってきた代表的監督。
1924年、ソヴィエト連邦グルジア共和国クタイシ生まれ。モスクワ大学卒業後、友人のレヴァズ・チヘイゼと劇映画第一作『青い目のロバ』(55)を共同監督し、カンヌ国際映画祭短編グランプリを受賞。以降、『祈り』では宗教の対立、『希望の樹』では因習、『懺悔』では独裁者によって困難を強いられる市井の人々を描き、社会的不正義を告発し続けた。しかし、その根底には人間への限りない信頼があり、寛容性、愛、自由への深い祈りが込められている。

フィルモグラフィ

ディミトリ・アラキシュヴィリ(1953)
我が宮殿(1953)
国立民族舞踏アンサンブル(1954)
青い目のロバ(1955)
他人の子供たち(1958)
私とおばあさんとイリコとイラリオン(1962)
祈り(1967)
私の恋人のための首飾り(1971)
希望の樹(1976)
懺悔(1984)

テンギズ・アブラゼ監督 
生前のインタビューより

新しい作品に取り掛かるとき私はいつも新米の監督です。その作品は私にとって常に最初で最後の映画なのです。遠慮のない親しい人たちは「無邪気すぎる」と私に忠告しますが、無邪気さなくして素晴らしい芸術はあり得ないと思います。永遠の子供のようにあらゆる物事に無邪気に驚くことができたら幸せです。もし芸術家がすべてを知り尽くしたならば、驚くこともできず、もはや芸術家ではなくなってしまうでしょう。

ジョージア人は言います。「歌いたいから歌うんだ」と。そのように、歌いたい気分になると、私は映画をつくり始めます。興味深く、哲学的で、深く力強い考えがなければ、心に残る芸術作品は生まれません。この力強い考えの源泉は強烈な体験や大きな感情、情熱です。このような衝動が体じゅうに満ちたとき、映画をつくらざるを得なくなるのです。映画の製作は気が遠くなるような作業であり、生死をかけた戦いです。同時に、それは大きな喜び、祭りでもあります。自分が好きな興味深い仕事に没頭することはとても幸せなことです。

私の「子供たち」(自分の作品のことです)のなかで、『祈り』は最も不当な扱いを受けた映画です。宣伝もされず、わずかなコピーしかつくられず、映画館でも上映されませんでした。殺されたも同然です。製作から7年後の1974年に第17回サンレモ国際映画祭のグランプリを受賞して、『祈り』はようやく生き返りました。『懺悔』も完成から2年間、日の目を見ることはなく、危うく破棄されるところでした。しかし、ジョージア人の同志シェヴァルドナゼ・ソ連外相(当時)の大きな努力により救い出されて上映された後は、想像をはるかに超えて広まり、ペレストロイカの旗手となったのです。

(翻訳:児島 康宏)

「祈り」3部作