デビュー作「セックスと嘘とビデオテープ」の後に監督した作品が、どれも評価されなかったことは意外ではありませんでしたか?
いいえ、デビュー作の方が評価されたことが思わぬ幸運だったんだ。あのときは何もかもタイミングが良くてね。あの当時、観客もああいう映画を見たがってたようだし。あれが1年前でも1年後でもうまくいかなかっただろうね。

それに、運のいいことに何もかもが僕らに都合のいいように進んだんだ。カンヌでさえもね。カンヌ国際映画祭の開催直前になって、当初フランシス・F・コッポラの予定だった審査委員長が、ヴィム・ヴェンダースに代わった。彼が「セックスと嘘とビデオテープ」を非常に気に入ってくれて、最後まで推してくれたんだ。あの結果はだれも予想できなかったよ。映画祭への出品さえできないはずだったんだからね。ほかのアメリカ映画が出品されないことになり、僕らの作品が、すでに決まっていた監督週間からコンペティション部門へと変わることになったんだよ。

こんな運のいいことが起きるときは、迷わず進むしかないね。まさにタイミングが良かったとしか言えないよ。

「セックスと嘘とビデオテープ」のおかげでサンダンス映画祭が注目されるようになったと、一般 的に言われています。ですが、このサンダンスも最近は方向性が変わってきたという意見も聞かれます。
あなた自身は「スキゾポリス」をスラムダンス映画祭に出品したわけですが、これはあなたからの何らかの意思表示だと考えていいですか?
いいえ、サンダンス映画祭は初めに目指していたことの多くを、いまだに保ち続けて、基本的にインデペンデント映画が日の目を見るように努力していると思うな。

スラムダンス映画祭の方とつながりができたのは、去年僕がプロデュースして、今ちょうど公開中の「デイトリッパー」という作品がサンダンス映画祭の選考からもれた結果 なんだ。脚本と監督を担当したグレッグ・モトーラが電話をかけてきてどうすればいいか聞いてきたとき、スラムダンス映画祭に応募したらいいんじゃないかと僕の考えを伝えたんだ。映画はまず見てもらわないことには、どうしようもないからね。そして、作品を応募したところ、気に入ってもらって、上映してくれて、メディアにも取り上げられたというわけだ。

今年は、スラムダンス映画祭のプログラマーの1人が「スキゾポリス」をハンプトン映画祭で見て言ってくれた。「この作品をぜひスラムダンス映画祭に持ってきてください。ぜひ単独上映会をしましょう。この作品は人間の特徴をよく表している。上映した方がいい。」とね。あちらからお誘いがあって、僕は「イエス」と答えた。こうやって簡単に決まったのさ。

これは僕の意見だが、インデペンデント映画の世界が、あまりに大きくなったために、スラムダンス映画祭のようなものができるのは避けられないだけじゃなく必要になってきてると思うんだ。サンダンス映画祭へ直接の影響力はまったくないし、サンダンスが攻撃しようとしてるとしたら、大砲で蚊を撃つようなもんだ。スラムダンス映画祭は、インデペンデント作品が増えて、そのおこぼれを扱っているわけだ。

あなたの作品に共通するものは何ですか?
扱っている主題や表現しようとしているものは同じだ。ただ違う形でだけどね。僕の作品はすべて内面 と外面の葛藤を描いている。主人公はみんな環境に合わず、他人の行動に振り回される。そういう意味では、「スキゾポリス」は「セックスと嘘とビデオテープ」につながっているとも言えるが、一方で僕自身が以前とはまったく違う人間だとも言える。

どのように違うのですか?
以前より深刻な人間ではなくなった。これはいいことだと思っているんだ。それに最近は、現実を表現するのに抽象的でシュールなものを使うことに興味がある。自分が影響を受けたもので、さらなる新しいものができないかと考えている。ダダイズムやリチャード・レスターやルイス・ブニュエル、モンティ・パイソンなどだね。ナボコフとか?そうだ、「青白い炎」だ。彼はすごいよ。彼の作品には、大きな構造上に普通 とは違う要素がある。本を読んでいる自分に気づいていることだ。これは「スキゾポリス」の中にも取り入れた。観客は映画を見ている自覚がある。映画の方も、観客が映画を見ている自覚があることに、気づいている。

「グレイズ・アナトミー」はどういう経緯で作ることになったのですか?
スポルディング・グレイ自身が「グレイズ・アナトミー」の映画バージョンを作るのに興味を持っていた。実際、ほかの企画で話が進んでいたのに中止になったらしい。その後1995年に僕に連絡が来て、やる気がないか聞かれた。もちろん作りたいと答えた。ただし、彼の2本の映画(「Swimming to Cambodia」と「Monster in aBox」)と同じような作品を求めているのなら断ると言ったんだ。聴衆を排除して、さらに映画らしくすれば、もっとおもしろい作品になるとね。彼の方もこれに賛成してくれた。

そのときはちょうど「スキゾポリス」を編集している最中で、2時間ほど悩んだよ。でもこの映画を作らないと絶対に後悔すると思ったんで、決心した。それに、僕自身スポルディングの大ファンだったから、断れなかったんだ。撮影が始まってすぐ、断らなくて良かったと思ったよ。僕らはこれを「製作中の二番手の作品」と考えていたけれど、最終的には2作とも良く出来た作品になった。みんなに気に入ってもらえたようだからね。

あえて聴衆を使わないことにした点がおもしろいと思うのですが?
そうすることで、画面に向かって1人が話しかける映画の堅苦しさを、何とかして取り除く必要があったんだ。見た人が違和感を覚えたなら、少しは効果 があったと思う。それから、スポルディング以外の人物を登場させたのも良かったと思う。最初から最後まで同じ画面 を見るのか、という恐怖は感じないだろ。

この映画は、イメージビデオふうに進んでいきますね?
そうだね、中心に持ってこようと思っていた、目の病気のことだけに絞っていったんだが、これには苦労した。本題からの脱線は大部分を削ったんだが、正直なところ、その脱線こそがスポルディングの魅力なんだ。しかし、この映画に関しては、中心に持ってくることだけに絞る必要があると考えた。

「グレイズ・アナトミー」の最終公演に一度行って、その後すぐに本人に編集が済んだものを渡した。それを見たスポルディングが、「6か月前に知ってたら、こちらのバージョンで公演していたのに」と言ったのはおかしかったな。かなり無駄 を省いて、モノローグ部分だけに絞った作品になった。

セリフだけの映画に、どのような考えで臨みましたか?
初めにやったことは、出版されている本のコピーをもらってすぐに、全部に目を通 して、リズムと内容の点から見て、自然に区切りがつくと思うところに、印をつけていった。このようにいくつかのセクションに分けた後、ホームベースが要るなと考えたんだ。

ホームベースとなったのは、映画の中で初めと最後に使った、アパートのセット。その場面 によって見た目は違っても、僕らが戻るのはこのセットなんだ。場面は昼だったり夜だったり、カーテンのせいで見た感じが違って見えるかもしれない。とにかく、作品の中に基点となる場所が必要だった。

そのほかは、どこからどの場面 に行くかを考えるだけだ。アパート以外にどんなセットを作り出すか。これに時間がかかったよ。撮影監督、プロダクション・デザイナーと一緒に、スポルディングを引き立てるような映像のアイデアを考えた。いろんなことを試したよ。画面 に彼が出ているときもあれば姿が見えないときもある。動いているときもあれば、じっとしているときもある。考えられることは何でも試した。彼本人に回ってもらったり、カメラを回してみたり。使えそうなものは、何でもやったよ。

その一見秩序のない感じが「スキゾポリス」ではさらに極端になっています。こちらの方が先に作られたわけですが、この映画はどうして作ることになったのですか?
「スキゾポリス」を作ったのは、そのとき自分がやっていたことに本気で嫌になっていたからなんだ。「蒼い記憶」を監督しながら、まったく楽しんでないことに気づいた。やる気がなくなってしまうのを感じたけれど、どうしてそんな気持ちになるのかは分からなかった。

それで、初めからやり直すことに決めたんだ。もう一度やる気を取り戻し、どうしてこの世界に入ったのかを自分自身に思い出させる必要があった。映画のセットにじっとしていられなかったり、現場に行きたくないなら、ほかの仕事を見つけるか、やる気がでるようなほかの方法を見つけるしかないだろ。

「スキゾポリス」で一番うれしかったのは?
自分の考えで自由にやれたことだね。あれだけの低予算(25万ドル)で映画を作ることになると、ほとんど何でもできるんだよ。それに、言葉で遊んでみたくてね。映画的な言語を使っていろいろやってみたかったんだ。もっとも、ゴダールの作品から「ケンタッキー・フライド・ムービー」にいたるまで、今までにだれも試したことのないことはないんだ。その影響力は、あらゆる範囲に及ぶからね。

「スキゾポリス」では、短編を作っていたときの作品に戻るように努力した。その時期の作品の方が、今までに作った長編よりもおかしくて、勢いがあって、遊んでいるからね。

自分の作品に主演されたとき、自分の演技を監督としての立場からどのように演 出するのですか?
あまり考えながらやったわけではないから、説明するのは難しいな。映画を作るときに、一緒に作っている仲間たちがよく知っている人たちだったり、今までにも一緒に仕事をしたことがある人たちだった場合、しかも自分で照明やカメラの設定までやるような場合がある。そんなとき、演技をしているときと演技をしていないときの境目がなくなるんだ。だから、映画の中の演技については、はっきりした記憶はないんだよ。
ただ覚えているのは、この日に、このロケ地に行ってこの場面 を撮ったということだけなんだ。その後、その日に撮った映像を見たときに自分が演技をしているのを見て、「おっとこれは何なんだ、いつのまに撮ったんだ」っていうことになる。

演技をするのは楽しいですか?
嫌いではないけど、自分でやりたいことじゃないことは確かだね。この作品で役者をやったのは、撮影が中断をはさみながら10か月かかったために、その間いつでも使えてしかも無償で働いてくれる役者が必要だったからなんだ。撮影の数週間前まではエディー・ジェミソンにやってもらう予定だった。ところが、彼は、シカゴに住んでいて、そこまでこの映画にかかりきりにことができなかったので、最終的には、マンソンの同僚の“名無し男”を演じてもらうことになった。

出来あがりには満足ですか?
満足だね。それについてはある人に「スキゾポリス」は成功かどうかを聞かれて、これは映画じゃないと答えたんだ。そんなふうには見てないとね。なぜって、ここでは、ふざけていて、刺激的で、アジテーションを喜劇ふうに描くようなことしかしようとしてないからね。だから、この作品が成功してもしなくても、僕には大して関係ないことなんだ。それよりも作品の力こそが僕にとっては大切なんだ。

僕が好きな映画は、今にも物語が全く脱線してしまうような作品だ。「次の5分は一体どうなるんだよ」と思うだろ。あの感覚こそ、僕が成功させたかったものだ。

「スキゾポリス」の裏には、かなりご自身の葛藤があったようですが。
そうだね。内面と外面の葛藤に関することだよ。物を生み出す人間にとっては、これがいつも課題だ。自分が望む世界があり、それが現実の世界とはめったに合うことはないと経験することで、この葛藤が生まれる。自分で決定しなくちゃならないんだ。今の世界を実在する現実として受け入れて、自分自身をこの世界に合うように変えて、そのことに満足することを学ぶか。あるいは努力を続けて、現実の世界の方を自分が心の中で望む世界に合わせるか。2つのうち後のほうは、どうやら健康にはよくなさそうだ。

僕は、5年おきに手に入れた物をすべて捨て去り、また初めからやり直すんだ。でもそんなことをするより実在する世界に合わせる方法を学んだほうが、賢明だよ。実際僕も、自分のアートの世界にとってはいいことだけど、人生には悪いことだと思う。だけど僕はこれをよくやるんだ。すべて捨て去って、また初めからやり直すってことをね。例えば、今着ている服を全部やめて、服を全部捨ててしまったりね。

新しい自分を生み出す?


そのとおりだよ。
自分を生み出す話しが出たところで、自己救済団体の話題に話を向けたいのですが、あなたの作品の中で,自己救済団体は大切な役割をしていますね。これらの団体をご自身は経験されたことがあるのですか?
僕らの社会が持つ、自己救済とか教祖といった文化のことは、この2年ほどずっと考えていることなんだ。こういった関連の本が半年もベストセラーの上位 にいるのを見たら「一体どんな内容なんだ」と思うよね。そこで、何冊か手にとって読んでみたんだけれど、そのほとんどが、イベンチャアリズムのセリフよりさらに屁理屈なのには驚いたね。立派な本が、人間に罪の許しを与えるため書かれているんだ。

それにもちろん、個人の教団はすべてが教祖の印象と合っている。ヒューバート・ハンフリーがうまいことを言っている。「聞いてもらう権利があるからといって、真剣に聞いてもらえるとはかぎらない」とね。それが僕らの社会では忘れられていると思う。自分の意見を持ち、声をあげる人はだれもが、観念的には道理にかなっている。自分の気持ちを言ってくれる代弁者を見つけることができれば、それが道理にかなったものになる。でも本当はこれは真実じゃないんだ。このことに僕らはもっと厳しい目を向けなきゃならない。そうしなくては、雑音は増える一方だ。すでに現在の社会は雑音だらけだけどね。

すべての考えに同じだけの価値を与えるのは、災難の元だ。

大作を作るよりも25万ドルの映画を作ることを選びますか、それとも逆ですか?


どちらにもそれぞれの魅力があるからね。どちらか1つをずっとやりたいとは思わないな。両方を行ったり来たりするようになると思うよ。僕は変化が好きなんだ。
最後に、ミレニアムまであと少しの現在、アメリカ文化はどのような位 置にいると思いますか?
とても難しい時期を迎えていると思う。たくさんの見えない力が僕らを一定の方向に押し流そうとしている。そして、多くの反発と混乱が存在する。「スキゾポリス」で僕は、この時代のスナップ写 真を撮って記録しておきたかったのかもしれない。たぶん自分の向上のために、あるいはほかの人のためにも。タイムカプセルみたいな役割を果 たすために。



1996年3月、アメリカ本国での劇場公開時に、テレビ番組『ラフカット』内で行 われたインタビューを元に構成しました。 インタビュアーはスタン・シュワルツ氏。



<<Back