LINE UP 2001

INTRODUCTION ベトナムから遠く離れて 北緯17度 東風
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浅田彰セレクション


INTRODUCTION

1970年代から宙吊りになっていた歴史が、
いままた大きく動き出している。
目覚めよ!歴史の激動を直視する視線を鍛えよ!
浅田 彰

6人の監督が参加して、クリス・マルケルによって、一本にまとめられた『ベトナムから遠く離れて』。西洋が東洋を見つめることで、自らを乗り越えていこうとするフィルム。そのなかで、最もベトナムから遠い監督が、ジャン=リュック・ゴダールだとすれば、最もベトナムに近づいた監督がハノイでキャメラを廻したヨリス・イヴェンスなのは間違いないでしょう。
世界史の節目節目に実際にその世界各地の熱い地域に出向いて作品を作るドキュメンタリーの巨匠ヨリス・イヴェンスと、映像の政治を追求するヌーヴェル・ヴァーグの申し子ジャン=リュック・ゴダール。映画史のなかでまさに対極に位置する二人が『ベトナムから遠く離れて』で、奇跡的に遭遇したあと、イヴェンスは『北緯17度』で戦時下の北ベトナムの日常を捉えることで、その唯物論的厳密さにますます磨きをかけ、ゴダールはジガ・ヴェルトフ集団を結成し『東風』のなかで、アメリカ映画のイデオロギー的象徴というべき西部劇の解体作業へと至ります。
まったく同時に顧みられることのないヨリス・イヴェンスとジャン=リュック・ゴダールのベトナムを介した一瞬の遭遇を通じて、映画へのふたつの歩みを同時に視界に収めようとすることが、この3本立てを21世紀の初めに企画したささやかな理由と言いえるかもしれません。
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ベトナムから遠く離れて

『ベトナムから遠く離れて』
LOIN DU VIETNAM

67〜68年頃にピークを迎えるこのヴェトナム戦争は、TVで伝えられた初めての戦争だったこともあって、世界中に反戦運動の嵐を巻き起こし、それは当時の反体制運動の主要な流れのひとつとして大きな盛り上がりを見せた。68年には、ケネディから戦争を引き継いだジョンソンがついに大統領選挙への出馬を断念したほどである(もちろん同年のいわゆる「テト攻勢」で敗北を喫したことが決定的なきっかけだが)。とくに、この戦争で映像メディアが大きな役割を果たしていることを意識した映画作家たちが、映画という自分たちの表現手段を使ってアメリカ帝国主義への批判とヴェトナム人民との連帯を表明しようとしたことは、歴史上、また映画史上、きわめて重要な出来事と言えるだろう。
その成果こそ、「ベトナムから遠く離れて」(67年)にほかならない。クリス・マルケルの呼びかけに応え、(映画のクレジット順で)アラン・レネ、ウィリアム・クライン、ヨリス・イヴェンス、アニェス・ヴァルダ、クロード・ルルーシュ、ジャン=リュック・ゴダールがフィルムを持ち寄り、マルケルの総編集のもとに出来上がったこの映画は、視点や語り口においてきわめて不均質でありながら、いや、それゆえにこそ、ヴェトナム戦争という大きな出来事が映画界に与えたインパクトの広がりと深みを如実に示している。そのなかでも、われわれはとくにイヴェンスとゴダールの二人に注目したい。結論的に言うなら、旧左翼的で直接的なイヴェンスと、新左翼的で媒介的なゴダール、その両極端の出会い(損ね)の場となっているところに、「ベトナムから遠く離れて」のひとつの面白さがあるのではなかろうか。

監督
アラン・レネ(「クロード・リダー」篇監督)
ウィリアム・クライン(監督)
ヨリス・イヴェンス(監督)*協力
アニェス・ヴァルダ(監督)*協力
クロード・ルルーシュ(監督)
ジャン=リュック・ゴダール (「カメラ・アイ」篇監督)

編集
クリス・マルケル

協力
クリス・マルケル/ミシェル・レイ/ロジェ・ピック/マルセーヌ・ロリダン/フランソワ・マスペロ/ジャック・ステルンベルグ/ジャン・ラクーテュール

音楽
ミシェル・ファノ/ミシェル・シャプデナ/ジョルジュ・アペルギス/ ナレーター=モーリス・ガレル/ベルナール・フレッソン/カレン・ビアゲルノン
1967年/フランス/116分/カラー・モノクロ/35ミリ/スタンダード/日本語字幕:寺尾次郎

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北緯17度

『北緯17度』
17EME PARALLELE LA GUERRE DU PEUPLE

言うまでもなく、ヨリス・イヴェンス(1898−1989)は文字通り20世紀の世界を端から端まで横断したといってよい偉大なドキュメンタリー映画作家である。すでに30年代から、イヴェンスは明確に社会主義の立場に立って、正確なカメラ・アイでとらえた現実をモンタージュを駆使してダイナミックに構成していくという方法を打ち立て、激動の世界を旅しながら、市民戦争をヴィヴィッドにとらえた「スペインの大地」(37年)に代表される多くの作品を制作してゆく。第二次世界大戦後、フランスがインドシナを再植民地化しようとしたように、祖国オランダがインドネシアを再植民地化しようとしたとき、イヴェンスがオランダ政府に派遣されながらこの動きを批判する「インドネシア・コーリング」(46年)を撮っていることも、注目に値するだろう。この件で祖国から裏切り者扱いされることになったイヴェンスは、東欧に移り、社会主義国家建設のプロパガンダ映画――というのが言い過ぎだとしても、それに限りなく近いものを撮っている。しかし、56年のハンガリー動乱とスターリン批判をへて、イヴェンスも少しずつスターリン主義から離れ、むしろ毛沢東主義に接近するようになった。
こうしてみると、イヴェンスがヴェトナム戦争を題材として選んだのは当然の成り行きだったと言えるだろう。このときもまた、イヴェンスはヴェトナムの現地に飛び込み、そこでの現実をできるかぎり正確にカメラに収めようとする。「ヨリスにとって、真のドキュメンタリー映画を撮るということは、まず人々と生活を共にし、時間をかけて出会い、見つめ、話を聞くこと、『北緯17度』(68年)でのように、アメリカ軍の絶え間ない爆撃の下、地下10メートルで3ヶ月間人々と暮らすことでした」というマルスリーヌ・ロリダンの言葉は、いかにも単純ながら、イヴェンスの映画づくりの核心を言い当てている。実のところ、「北緯17度」は、イヴェンスと、彼の晩年のパートナーとなるロリダンの、最初の共同監督作品であり、16ミリの同期録音撮影という初めての実験でロリダンが録音を担当て、見事な成果をあげている。

監督
ヨリス・イヴェンス

協力
マルセリーヌ・ロリダン/ブイ・ディン・ハク/ヌイエン・ティ/シュアン・ピュオン/

1968年/フランス/113分/白黒/16ミリ(35ミリブローアップ)/日本語字幕:藤原敏史
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東風

『東風』
Le vent d'est / Vento dell'esto

ゴダールは68年の5月革命に際して、街頭に立ち、数々のシネ=トラクト(アジビラ映画)を制作する。とくに、画家のジェラール・フロマンジェと制作した「赤」――三色旗の上を赤い絵の具が覆い尽くしてゆくさまを逆回しで撮った作品――などは、「中国女」の方法論をさらに過激化してゆく契機として注目に値するだろう。さらに、世界各地を旅し、「中国女」の撮影に際して知り合ったジャン=ピエール・ゴランとジガ・ヴェルトフ集団を結成して、69年からはこの集団の名前で数々の革命的な映画を制作する。そのひとつの極点が「東風」(69年)に他ならない。
イタリアで撮影されたこの映画では、一方で、アメリカ映画の典型としての西部劇(「西側[ルビ:ウェスタン]」の表象の典型としての「ウェスタン」)の紙芝居めいたパロディが展開される。北軍兵士(アメリカ帝国主義)とインディアン(第三世界)、ブルジョワ女と「アルチュセール嬢」(8)らの闘士たち、そして「翻訳」による「裏切り」を行なう修正主義者。だが、そこで問題なのは、むしろ、このような形では現実の闘争を表象できないということなのだ。
そこから、問題は、ブルジョワ的表象(代行)概念一般――それは当然映画そのものを含んでいる――へと拡大され、この映画のスタッフによる討論(職場大会)がとめどなく続く一方、映像はしばしば黒画面によって中断され、あるいは、フィルムがずたずたに傷をつけられたり穴を穿たれたりして、ほとんど不可視の域に近づいてゆく。そう、これは自己破壊にまで近づいた自己批判(ゴダールの、そして映画の)の記録――きわめて過酷でありながら息を呑むほどにカラフルな、光に満ちてなおどす黒いドキュメントなのだ。

監督
ジガ・ヴェルトフ集団

脚本
ジャン=リュック・ゴダール/ダニエル・コーン=ベンディット/セルジョ・バッツィーニ

撮影
マリオ・ヴルピアーニ

編集
ジャン=リュック・ゴダール/ジャン=ピエール・ゴラン
出演
ジャン・マリア・ヴォロンテ (騎兵隊士官)/アンヌ・ヴィアゼムスキー (革命家)/パオロ・ポッツェジ (指揮官)

1969年/伊=仏/100分/イーストマンカラー/16ミリ/スタンダード/日本語字幕:寺尾次郎
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STAFF

「ベトナムから遠く離れて」総編集
クリス・マルケル
CHRIS MARKER

1921年7月29日パリ郊外ヌイイ=シュル=セーヌ生まれ。本名Christian Francois Bouche-Villeneuve。大学で哲学を学び、文学士号を修得。終戦後、クリス・マルケルなどのペンネームでジャーナリスト、詩人、作家、写真家として活動を始め、小説「Un coeur net」、エッセー「Giraudoux par lui- meme」を発表。世界中を旅し、自身の写真による韓国についてのフォト小説「Les Coreennes」なども出版。52年アンドレ・バザン編集の機関紙<労働と文化>に携わっていたポール・ランティの紹介により、アラン・レネと知り合い、53年完成の「彫像もまた死す」に共同監督として名を連ね、54年ジャン・ヴィゴ賞を受賞。それと前後して52年のヘルシンキ・オリンピックを扱ったドキュメンタリー「Olympia 52」を単独で監督。その後も執筆などを続けるかたわら、レネ作品のコラボレーションや、シベリア、キューバなど世界各地で撮影したドキュメンタリー作品などを精力的に制作。62年「美しき五月」、63年再度ジャン・ヴィゴ賞を受賞した『ラ・ジュテ』(62)といった<シネマ・ヴェリテ>と呼ばれた革新的な傑作を放ち、世界的に注目を集める。65年に日本で「不思議なクミコ」を撮影して以来、度々来日してはユニークな作品を作成。67年、ヴェトナム民族解放戦線への連帯意識の表明としてレネ、クライン、ゴダールらに面々に呼び掛けて今回の作品を製作した。
その後も、世界を巡って多岐にわたるアプローチで意欲的な作品を次々と作り上げ、70年代終わりには早くもCGも採用し、日本でも撮影した『サン・ソレイユ』(82)などに取り入れた。84年は『乱』撮影中の黒沢明監督を追ったドキュメンタリー『AK』にも取り組む。以後はビデオ作家として多数の作品を撮り、更にはマルチメディアにも進展し、評判となった久しぶりの劇場用映画「レベル・ファイブ」に続いて、CD-ROMの製作にも取り組んでいる。  

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「北緯17度」/「ベトナムから遠く離れて」監督
ヨリス・イヴェンス (監督)
JORIS IVENS

1898年11月18日オランダ、ニイメヘン生まれ。本名Georg Henri Anton Ivens。祖父は写真家、父はカメラ・チェーン店経営者。13歳の時、家族総勢でカウボーイ映画「ウィグワム--燃える矢」を監督。その後、ロッテルダムの経済高等学校に進むが、第一次大戦のため兵役に就いた。その後、学業に戻るが、学生運動に力を注ぐ。22年よりベルリンのシャルロッテンブルク大学写真科でコースを受講しながら、ドレスデンのカメラ工場やイエナで働く。26年に帰国して家業を継ぎ、主任を務める。プドフキンの『母』やドヴジェンコ作品を見て、映画に魅せられ、27年には短篇習作を監督。28年にはロッテルダムの可動橋をリズミカルに収めた短篇記録映画「橋」を完成し、アヴァンギャルド映画作家としてヨーロッパで注目される。以来、次々に作品に取り組み、32年にはロシアに行き共産主義者の若者を追った「コムソモール―英雄たちの歌」を撮影。以後は、世界を巡りながら独創的な作品を制作し、36年はロックフェラー基金による教育映画「スペインの大地」をアーネスト・ヘミングウェイのナレーションで作り、37年には中国に向かい、ロバート・キャパ撮影の「四億」(39)を完成。その後もアメリカ、オーストラリア、東欧、そして東ドイツの制作で世界の6大河で壮大なロケを敢行した傑作「世界の河はひとつの歌をうたう」と精力的に活動。一転してパリで撮影したメランコリック傑作短篇「セーヌの詩」も発表。
この後、政治色を強め、映画の講議などをしながら中国、イタリア、チリなどで貧困層を描いたドキュメンタリーを作り続け、再びフランスに戻り、「ミストラル」で再び詩的な作品を監督。67年マルセリーヌ・ロリダンと共にヴェトナムに渡り、『北緯17度』の撮影に取り組み、丁度『ベトナムから遠く離れて』に取りかかっていたクリス・マルケルの呼び掛けにより同作にも協力。71年から75年にかけてロリダンと共に12時間に及ぶ連作「愚公山を移す」に取り組み、中国の知られざる日常を収めることに成功。そして88年には永年の集大成とも言える『風の物語』を完成。ヴェネツィア映画祭に出品され、ギネスブックにも記載された世界最年長の現役最長監督(この記録はマノエル・デ・オリヴェイラによって更新された)に対しての功績により金獅子賞が贈られた。翌1989年6月28日パリで死去。99年には山形国際ドキュメンタリー映画祭で回顧特集上映が行われ、その真価が日本にも初めて明かされた。

「東風」/「ベトナムから遠く離れて」カメラアイ篇監督
ジャン=リュック・ゴダール (監督)
JEAN-LUC GODARD

1930年12月3日パリ生まれ。父ポールはスイスの開業医、母オディールはパリの銀行家の娘。少年時代をスイスのニヨンで過ごす。パリのリセ・ビュフォンを卒業後、47年にパリ大学に入学し、民俗学を専攻。2年で中退後、配達係、カメラマン、TVの編集補、建設作業員、大衆誌《Les temps de Paris》のゴシップ工作員などをしながら、シネマテーク通いを始める。50年バザン、トリュフォー、リヴェット、ロメール、シャブロルらと出会い、彼らと共にシネクラブを設立。同人誌《Gazette du Cinema》を刊行し、ハンス・リュカスの名で映画批評を発表し、52年より《カイエ・デュ・シネマ》で映画批評を続ける。
54年、短編「コンクリート作戦」を監督。製作者ジョルジュ・ド・ボールガールに出会い、長編第1作『勝手にしやがれ』(59)を監督。60年に公開されるやヌーヴェル・ヴァーグの代名詞的存在となり、以後は『女は女である』『女と男のいる舗道』『気狂いピエロ』などのアンナ・カリーナとのコンビ作で旋風を巻き起こした。『男性・女性』以後、政治色を一層強め、68年《5月革命》以後は更に実験色の強い風変わりな作品を矢継ぎ早に撮影。更にジャン=ピエール・ゴランらと《ジガ・ヴェルトフ集団》として本作を始めとする、過激な政治作品を作った。
74年にアンヌ=マリー・ミエヴィルと工房《Sonimage》(後にPeripheriaに社名変更)を設立し、多数の作品を製作。80年『勝手に逃げろ/人生』(79)で商業映画界に復帰し、セザール賞の作品賞や監督賞にもノミネート。『カルメンという名の女』(82)ではヴェネツィア映画祭のグランプリに輝く一方、『ゴダールのマリア』(83)では宗教団体からのクレームで大騒動となった。
その後は、再びビデオを駆使した作品に没頭し、映像をコラージュした連作『ゴダールの映画史』などにも取り組んでいる。






マルセリーヌ・ロリダン、『北緯17度』を語る。

『北緯17度』を作ってからもう30年以上になるのですが、今日本でこの映画が、日本の観客のみなさんのために公開されることになってとても驚くとともに、とても心動かされています。これは戦争のなかで生きる農民たちの生活のなかに深く入り込んだ映画であり、日本の農民が自分達の戦争のなかで経験したことと、生活習慣の違いを超えてどこか共通するところがあるのではないかと思っています。日本は第二次大戦中にヴェトナム----当時はインドシナでしたが----を占領していましたが、その日本の皆さんがその土地に生きる人々の苦しみを見るための扉を開けたことは、とても重要だとも思うのです。
ヨリスと私も1970年代の初めに日本に来て、日本の農民の方々(註:小川プロの招きで三里塚を訪れている)を知る機会があり、彼らの生活の仕方や考え方、文化のあり方を垣間見ることができました。
この映画は確かに北ヴェトナムの視点から描かれています。でも北ヴェトナムが共産主義の国であろうがなかろうが、これがまぎれもなく侵略戦争であったことは確かです。そして戦争のなかで民衆の持ちうる自分を守る闘いの方法、自分自身の恐怖をどう克服するのかは、どんな政治システムだろうが限られているし、共通するものだと思います。だからこそ、この映画を最悪の状況下にある日常生活でいかに生き延びるかのいい例として見ていただきたいと思います。

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INFORMATION

●『東風』
10月22日(火)21:20〜
シネセゾン渋谷にて上映
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SCHIZOPOLIS ローサのぬくもり ビートニク 浅田彰セレクション

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