「アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティブ」Alain Robbe-Grillet Retrospective

アラン・ロブ=グリエ

アラン・ロブ=グリエ

1922 8月18日、フランス、ブルターニュ半島の先端の軍港都市ブレストに生まれるが、まもなくパリに移る。
1942 ドイツ軍占領下のパリで国立農業技術専門学校に進学。同年、同級生全員とともにドイツ軍に徴用され、ニュルンベルクの戦車工場で、施盤工として強制労働に従事。
1943 リウマチにかかりパリの病院に移送される。
1945 国立統計経済研究所に就職、「短期経済動向研究」誌の編集に携わる。
1948 同研究所を退職し、セーヌ=マルメ県の姉が勤めていた人工授精センターに勤務。このときはじめての小説『弑逆者(しぎゃくしゃ)』を書き始める。翌年書き終え、ガリマール社に持ち込むが、社長本人から「読者はいないでしょう」という手紙で出版を拒否される。
1949 植民地果実柑橘類研究所に農業技師として就職。バナナ農場監督官して、生物学と統計の分野を担当。その後、アフリカのモロッコ、ギニア、フランス領の西インド諸島、グアドループ、マルティニークに滞在する。
1951 マルティニークで発病し、フランスに帰国する船中で『消しゴム』を書き始める。帰国後同研究所を退職、パリの実家に戻り、『消しゴム』の執筆に打ち込む。夏にトルコ旅行に行き、妻となるカトリーヌ・ルキスタンと出会う。完成した『消しゴム』をエディオン・ド・ミニュイ社に持ち込み、ジェームズ・ランドン社長と意気投合する。
1953 同社より『消しゴム』刊行。フェネオン賞を受賞。ロラン・バルトに絶賛され、新たな文学運動<ヌーヴォーロマン>の旗手として一躍人気作家となる。
1955 同社の原稿審査の担当を経て、文芸顧問に就任。ベケット、ビュトール、クロード・シモン、ナタリー・サロート、マルグリット・デュラスらの同社からの敢行を支援し、<ヌーヴォーロマン>のスポークスマン的存在となる。同年には『覗く人』を刊行。ジョルジュ・バタイユ、モーリス・ブランショらの支持を受け、批評家賞を受賞。
1956 カトリーヌ・ルスタキアンと結婚。続けざまに、『嫉妬』(56)、『迷路の中で』(59)を発表。
1960 アラン・レネ監督の勧めで『去年マリエンバードで』オリジナル脚本を執筆、詳細なカット割りまで書いた台本は、後に「シネロマン」として発表されることになる。
1961 大映製作、市川崑監督の日仏合作映画『涙なきフランス人』の脚本のオファーを受け執筆、来日するも製作は頓挫し、幻の映画となった。日本からの帰路、香港に立ち寄り『快楽の館』の着想を得る。
1963 『不滅の女』を自ら制作、映画監督としてもデビューする。同年、過去の小説を痛烈した批判した批評集『新しい小説のために』を発表、理論的にも<ヌーヴォー・ロマン>の代表格となり、その後も精力的に、執筆・映画製作を行う。
1978 アテネ・フランセ文化センターで「ロブ=グリエ映画祭」が開催され、来日。
1985 東京で開かれた第47回国際ペン大会に出席し、「断片化と物語―作家は真実の担い手にあらず」と題した講演を行う。
1986 ヴェネツィア国際映画祭で審査委員長を務める。
1996 来日。NHK特集「ヌーヴォーロマンの新しい可能性」に出演。日仏学院でも講演を行った。
2004 アカデミー・フランセーズの会員に選出される。
2008 2月18日、心臓発作で死去。享年85。
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