JOHN CASSAVETES

1929年12月9日、ニューヨークでギリシャ系移民の子供として生まれる。ハーバード大学卒業のビジネスマンだった父が多額の借金を負い、貧しい幼年期を過ごす。
高校を卒業後、最初にニューヨークのコルゲート大学に進むが中退。同校在学中にロバード・E・シャーウッドの戯曲に触れ、俳優を志す。次に徴兵されていた兄の母校であるニューヨーク北部のモホーク兵学校に入学するが、学校自体が1年後に廃校。続けて同じニューヨーク州にある兵学校シャンプラン大学に入学。しかし、ここも間もなく退学。

そして、1950年、友人に誘われ、シャーウッド主催のアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツ(AADA)に入学、演技を学ぶ。このAADAで公私に渡る生涯の伴侶となるジーナ・ローランズと出会う。
1年間に渡りAADAで演技を学んだカサヴェテスは、テレビ番組「LUX VIDEO THEATER」のエキストラとして初めて俳優としての仕事につく。次いで、グレゴリー・ラトフ監督の映画『TAXI』('52)にエキストラとして出演。ラトフの紹介により、ブロードウェイの舞台でも演出助手を務める。やがて、テレビ番組「OMUNIBUS」の一話で演じた闘牛士役が20世紀フォックスの目にとまり、マイケル・カーティス監督の『エジプト人』('54)に出演。同年、ジーナと結婚。

その後、テレビや映画で徐々にキャリアを積み始めたカサヴェテスは、ドン・シーゲル監督の『暴力の季節』('56)で注目され、マーティン・リット監督作品『暴力波止場』('57)、ロバート・パリッシュ監督作品『西部の旅がらす』('58)など、主要キャストとして出演。その頃、かつて一緒に脚本を書いた旧友バート・レインと再会し、2人で俳優志望の若者たちを集めワークショップを結成。出演したラジオ番組中の呼びかけで集まった2000ドルを元手に、『アメリカの影』('57)を製作。
しかし、『アメリカの影』は完成当時、ジョナス・メカスなど一部の批評家を除いてアメリカではあまり評価されなかった。借金を背負ったカサヴェテスはその後、テレビ・シリーズ「ジョニー・スタッカート」の主役を引き受け、このシリーズが大ヒットする。以後3年間続いたシリーズの中、カサヴェテスは5本の作品で演出も手がけた。

その頃、『アメリカの影』がイギリスを筆頭にヨーロッパ各国で熱狂的に支持され始める(英アカデミー賞にノミネート)。そして、イギリスで『アメリカの影』を見たパラマウント映画のマーティン・ラッキンと出会い、カサヴェテスはすぐさま「ジョニー・スタッカート」の脚本家リチャード・カーと共に『よみがえるブルース』('61)の脚本を書き上げ、同作のプロデューサー兼監督としてパラマウントに雇われる。

しかし、初めての大手スタジオの映画作りに違和感を覚えたカサヴェテスは、続いて製作に入った『THE IRON MAN』で担当製作者と決裂し、監督の降板をラッキンに直訴。間もなく当の作品自体が製作中止となり、同作で知り合ったバート・ランカスターの主演作『愛の軌跡』('63)を監督する。しかし、編集段階で当時大物プロデューサーだったスタンリー・クレイマーと対立。このことが原因で、カサヴェテスはディレクターズ・ギルドから除名され、監督ばかりでなく俳優としても2年間ハリウッドから遠ざかる。

ハリウッド的な映画作りの限界を感じたカサヴェテスは、再び『アメリカの影』の製作者モーリス・マッケンドリーと組み、俳優として稼いだお金を投入し、自費で『フェイシズ』('68)の撮影を開始。ジーナ・ローランズ、シーモア・カッセルやアル・ルーバンといった『アメリカの影』以来の仲間たち、リン・カーリンや『愛の奇跡』で知り合ったジョン・マーレイを始めとする新たな仲間たちと共に、自宅を撮影場所として自主製作する。同作は、ヴェネチア国際映画祭で最優秀監督賞を受賞、3つのアカデミー賞にノミネートされ、アメリカ本国でも批評的、興行的な成功をおさめた。

この『フェイシズ』以後も、俳優としてのギャラを製作費として注ぎ込みながら、素人とプロの俳優を共演させ、大手スタジオの介入がない自主製作による映画作りはカサヴェテスの基本となった。しかし、長期に渡る体調不良で、89年2月3日、肝硬変のためのロサンゼルスの病院で他界する。59歳没。

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