REVIEW

カサヴェテス映画の謎は今も作り手を刺激する 松田広子(映画プロデューサー)

 ジョン・カサヴェテスの映画を、またスクリーンで、フィルムで観ることができる。しかも、魂がふるえるとしかいいようのない『ラヴ・ストリームス』を観られるのは実に19年ぶりになる。

 カサヴェテスの作品を観るときに予備知識はあまり意味がない。ただ、観る。出くわす。びっくりする。これは何だ? ぎくしゃくした中年夫婦、いきづまった女優、借金を抱えたクラブオーナーが、「関係ない人」には思えない。エゴ剥き出しの、どちらかといえばダメな人たちなのになぜか愛しくなってくる。 笑ってしまうのに涙が出る。胸をかきむしられるような、これはいったい何だろうか?

 すでに何度も観ていても、その感覚は繰り返される。ストーリーそのものはシンプルで複雑な人物相関図も年表も必要ない。「こんな"画"をみせてやろう」といった奇をてらった表現もない。ただひたすら、大切な人との関係がうまくいかない人間たちが、「孤独」や「老い」の前でじたばたじたばたしている。愛をつかもうとして懸命に闘っている。それも観念的ではなく具体的なアクションでそれは描かれる。歌ったり、踊ったり、走ったり、酒に酔ったり、ギャンブルに嵩じたり、ナンパしたり。階段を上り下りしたり、殴り合ったり。それが今まさにキャメラの前で起こってしまったかのようであることが衝撃的なのだ。

雑誌「Switch」の編集をしていた時に、海外のインディペンデント映画の監督たち―ヴィム・ヴェンダース、ジム・ジャームッシュ、ジョン・セイルズ、ジャック・ドワイヨン、ショーン・ペン等―が、カサヴェテスの作品に強く反応している理由が知りたくて、「ジョン・カサヴェテス特集号」を編んだ。そこに「映画の核」のようなものがあるのではないか、と。1989年、カサヴェテスの亡くなった年の夏だった。共に映画を作ってきた仲間たちを訪ねたインタビュー記事を中心にしたのは、まだ、日本では作品がほとんど紹介されていなかったからで、カサヴェテスの人間力をフィーチャーしたものになった。その後、追悼として1990年に『オープニング・ナイト』が公開され、1993年「カサヴェテス・コレクション〜アメリカ映画を変えた男の肖像〜」(今回と同じラインナップ/シネセゾン配給)で、映画作家カサヴェテスの作品をまとめて観る機会が訪れる。PARCOではサム・ショウとラリー・ショウのカサヴェテス写真展も開催され、フィルム・アート社から写真集「CASSAVETES'STREAMS」も出版された。次のカサヴェテス体験は2000年の「CASSAVETES2000」。友人の早すぎる死にどうしていいかわからない男3人の様を描いた傑作『ハズバンズ』のほか、『ミニー&モスコウィッツ』『愛の奇跡』が公開された(ビターズ・エンド配給)。

ワークショップからスタートし、即興演技で作られた『アメリカの影』を別にすれば、カサヴェテス作品には練り込まれた脚本があった。俳優として稼いだお金をつぎ込み、自宅を抵当に入れて、時には自宅や知人の家をロケ場所にし、家族も出演しての作品群はインディペンデント魂の美談として語られるが、そういった独自の"スタイル"を築きたかったわけではなく、ただ、撮りたい映画を撮ろうとしたら、方法はそれしかなかった、ということだろう。

そこまでしても現場は現場だ。時間イコール経済的なリスクとなる。太陽の動きは止められないし、ロケ場所すべてが、いつでもOKであったとは思えない。『ハズバンズ』や『ラヴ・ストリームス』のメイキングなどを観ると、脚本読みやリハーサルがあり、レールを敷いたり雨を降らせたりという撮影の仕掛けもあって当然ながら"段取り"のある芝居である。俳優が演技に集中できる環境を整えるのがいかに難しいか、自分が映画に関わるようになってからはいやというほど思い知らされているだけに、ますますカサヴェテス作品は謎なのだ。どうやって、この生々しい感じをつかみ取れるのか?

外枠的な環境が整ったからといって俳優がベストを尽くせるとも限らない。演じることの不安、とまどいをとりのぞき、自分自身を解放させるように導いてくれた、と出演者たちは口をそろえる。演技経験があろうがなかろうが関係ない。子役にも、まったく同じように接していたという。カサヴェテス本人が俳優であったことも関係しているだろう。時には監督自らキャメラをかまえ、演技をする相手となって役者と向かい合い、極端なほどのクローズアップを多用した。今、この顔を見たい、見せたいというがぶり寄り。俳優たちは逃げ場をなくして、なにかをさらけだしている。

一方で、そぐわない空間にぽつんと置かれてしまった人を引いて撮るのも巧みである。『フェイシズ』で娼婦とのばか騒ぎが空回りしているような空間、『オープニング・ナイト』で女優が滞在している異様に広い部屋の所在なさ、『こわれゆく女』の落ち着かないベッドルーム。そういった空間の演出や、わざと隙間のある音楽や、俳優の力量があいまって、登場人物たちは浮かび上がってくる。

編集も延々と繰り返され、さまざまなことが試されるのが常だったという。『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』の76年(今回公開されるオリジナル)、78年、ふたつのバージョンを観比べると、前半はかなりの違いがあり、一連の芝居を切り刻んで別の日としてみたり、前後の脈絡のわかりやすいシーンでもばっさり落としていたりする。カサヴェテス作品の水面下の氷の塊はとてつもなく大きい。

が、水面上には最終的に「俳優」が浮かび上がるのだ。

心と身体を"真に"動かしている俳優たち(素人も含む)の活劇。それさえあれば、映画は面白い、とカサヴェテス作品は思わせてくれる。

 昨年、思いがけないところで『ラヴ・ストリームス』について語られるのを聞いた。東京フィルメックス映画祭で上映された『CUT』のティーチ・インでのこと。アミール・ナデリ監督は『ラヴ・ストリームス』の現場に参加していたという。『CUT』の主人公、映画監督の秀二には、信じる映画のために苦闘するカサヴェテスの姿が反映されているそうだ。秀二は映画のための借金を、殴られ屋となることで返済しようとするのだが、倒れても倒れても名作を1本、1本、想起して起き上がる。彼を鼓舞する100本の中には『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』も入っている。借金で店を失いかけているクラブオーナーが、ギャングたちに脅されながらも立ち上がろうとする筋立てというより、作品の精神が『CUT』に影響を与えているのだろう。

カサヴェテス・ストリームスは流れ続け、作り手たちを刺激する。
映画の上映や製作をとりまく状況が刻々と変化しつつある今も。今だからこそ、一層。

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